ドゥルーズ&ガタリ、畏るべし
- 代表 本吉 進
- 2019年11月4日
- 読了時間: 3分
前の記事で述べた「MMT」ですが、重ねて、正統派の経済学アカデミズムでは冷遇されているようですが、私としては「その内容は、(少なくとも「貨幣が存在しない」経済を平気で扱う新古典派の教科書的議論よりは)リアリティがあり面白いです。」と書きました。そして、この点に関して、触れておきたいことが1つ。
フランス現代思想など、「正統派の経済学アカデミズム」は(MMTとはまた違う意味で)相手にしないとは思いますが、同思想の最良の所産として、ドゥルーズ&ガタリの「資本主義と分裂病」の二冊、『アンチ・オイディプス』(1972年)と『ミル・プラトー』(1980年)があります。同2冊は、フランス現代思想の日本への導入を知る上で登竜門的な、浅田彰氏の『構造と力』が主に依拠していたことでも、よく知られていると思います。
改めて、スゴイと思いますが、『ミル・プラトー』のプラトー13「BC7000年-捕獲装置」には以下の驚くべき記述があります。(河出書房新社の単行本翻訳で499ページ)
「貨幣はいつも権力装置によって配布されるのであり、財-役務ー金銭の間の等価関係が成立するように、保存-流通-循環という条件を伴って出現するのである。(中略)税こそが、これら3つの等価関係と同時性を作り上げる直接的な場なのである。一般的な法則として、税が経済の貨幣化をもたらすのであり、税が貨幣を作り出す。税が、必然的に運動、流通、循環の中にある貨幣を作るのであり、循環する流れの中で、必然的に役務と財に対応するものとして貨幣を作るのである。」
MMTの「租税が貨幣を動かす」という理屈は、政府が租税債務の決済のための計算単位としてのメディアを指定すれば、それが当該メディアへの需要を喚起し、それが貨幣となるということですが、貨幣を担保しているのは、結局のところ、国家権力であるという視点は共通するとしても、発生論的かつ本質論的に、少し単純なようにも思います。ドゥルーズ&ガタリの上記の引用は同章の前後の文脈を全部読まないと理解できない部分もあるのですが、1980年という時点において、ほぼ40年後に経済学の世界を騒がせる理論を実質的に先取りした議論を展開しているという点は、流石というべきかと思います。
あと、他方の『アンチ・オイディプス』に関して、特に日本の貨幣論の議論(特に現代思想系のそれ)に関して、傾聴に値することを書いている部分がありますので、同じく引用しましょう。(河出書房新社の単行本翻訳で276ページ)
「不幸なことは、マルクス主義の経済学者たちが大抵の場合多くは、生産様式の考察や『資本論』の最初の部分にみられる一般的等価物としての通貨の理論の考察にとどまって、銀行業務や金融操作や信用通貨の特殊な循環に十分に重要性を認めていないということである。(こういった点にこそ、マルクスに回帰する(つまり、マルクスの通貨理論に回帰する)意味があるのである)」
どの勢力の誰が、とはここでは書きませんが、日本の現代思想の文脈では「『資本論』の最初の部分にみられる一般的等価物としての通貨の理論の考察にとどまった」極めて抽象的な議論が多くありました。その理論性は魅力のあるものも多かったのは事実ですが、少なくとも、表面的な議論としては「銀行業務や金融操作や信用通貨の特殊な循環に十分に重要性を認めていない」議論であったと言わざるを得ないと思います。この点、後者の点に関しては、MMTの議論はかなりリアリティのある議論をしていると言える側面はありますので、重ねて、MMTに関しては「結構、面白いよ」と伝えておきたいと思います(再びですが、前の記事で書いたように、政策の方向性に関しては同意できない部分が多いです)。

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